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  鎌倉大仏歴史アクセス
  鎌倉大仏は、鎌倉のシンボルともいえる大仏です。神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院「高徳院」にあるもので、本尊として「鎌倉大仏」「長谷の大仏」と知られる阿弥陀如来像です。寺院の正式な名称は、「大異山高徳院清浄泉寺」といいます。開基、開山はともに不詳です。2004年の2月27日に、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡となっています。現在の住職は、慶應義塾大学教授でもある、佐藤孝雄が務めています。



鎌倉大仏の特徴として、台座を含む大きさは13.35m、仏身高は11.312m、顔の長さは2.35m、目の長さは1.00m、口幅は0.82m、耳の長さは1.90mの特徴を持ち、従業は121tの重さがあります。作者は不明ですが、「慶派」と呼ばれる仏師達の作風と、宗代中国の仏師の影響を併せ持つ、鎌倉期らしい仏像と言われています。造立が開始されたのは1252年とされていますが、未だ原型作者すら特定されていません。

鎌倉大仏の造像の経緯に付いても不明な点が多く、僧侶の浄光の歓進にいおって「大仏堂」の建立がはじめられ、1252年から作られ始めたのが鎌倉大仏であるというのが定説です。浄光が大仏造立を行ったとされていますが、ほかの事跡がほとんど知られておらず、一僧侶の力だけで造立されてたと考えるのは不合理で、鎌倉大仏を作るには鎌倉幕府が関与していると見られていますが、銅造大仏の造立を開始する事にのに記されており、完成に付いては何も記されていません。

幕府と浄光の関係などは、未だに分かっていません。鎌倉大仏は、元々は大仏殿の中に安置されていました。大仏殿が存在したことは、2000年から2001年にかけて、境内の発掘調査が行われたことによって確認されています。「太平記」には、大風で大仏殿が倒壊した事や、「鎌倉大日記」によれば、大仏殿は応安2年にも倒壊している事が記されています。発掘調査により、応安2年の倒壊後、再建された形跡は見つかりませんでした。

境内には、鎌倉大仏だけではなく、ソウルの朝鮮王宮にあったものを寄贈した観月堂があったり、内部には江戸幕府2代将軍徳川秀忠が所有していたとされる、聖観音像を安置していたり、与謝野晶子が読んだ歌碑があるなど、鎌倉大仏だけではない、見所もさまざまあります。高徳院に行くには、江ノ島電鉄の長谷駅より徒歩約七分、鎌倉駅からバスを利用する場合は、江ノ島電鉄バス、京浜急行バスに乗り「大仏前」停留所で下車してすぐの場所です。